作品概要
軍人の秋山好古・真之兄弟、俳句の革新者として知られる正岡子規という、松山出身の3人の主人公らが登場し、彼らの生き方や近代国家として成長していく明治日本の姿が描かれた司馬遼太郎の小説。「産経新聞(夕刊)」に1968(昭和43)年4月22日 〜1972(昭和47)年8月4日にかけて、4年半にわたり連載された。計1296回。構想期間も含めると10年に及び、司馬遼太郎は40代のほぼすべてを費やした。1999(平成11)年から 2000(平成12)年6月30日にかけて「産経新聞(朝刊)」に再掲載。挿絵は、下高原健二氏。2009(平成21)年からの3年間、NHKのスペシャルドラマとして放送された。
原作者:司馬遼太郎(1923〜1996)
大阪市生まれ。大阪外国語学校(のち大阪外国語大学、現大阪大学外国語学部)蒙古語部卒。1948年産業経済新聞社入社。60年『梟の城』で第42回直木賞を受賞。『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』『空海の風景』『翔ぶが如く』『菜の花の沖』『韃靼疾風録』など多数。また『街道をゆく』『風塵抄』『この国のかたち』などの紀行、エッセイも多い。93年文化勲章受章。命日の2月12日は「菜の花忌」とよばれる。
挿絵:下高原健二(1914〜1992)
鹿児島県生まれ。大阪信濃橋洋画研究所で絵画を学ぶ。大映大阪支社で宣伝広報を担当したあと、挿絵画家としてデビュー。代表作に『坂の上の雲』の挿絵のほか、渡辺淳一の『愛のごとく』、『まひる野』、今東光の『明日また』、大岡昇平の『天誅組』の挿絵などがある。
『坂の上の雲』の 3人の主人公
秋山 好古
写真:伝記『秋山好古』より
秋山 真之
正岡 子規
写真:国立国会図書館所蔵
秋山 好古(1859~1930)
「日本騎兵の父」と言われた陸軍の軍人。晩年は松山で北予中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)の校長を務める。
<略歴>
1859(安政6)年 | 1月7日、松山城下中歩行町に秋山久敬の三男として生まれる |
1875(明治8)年 | 大阪へ出立 大阪・名古屋にて小学校教員をつとめる |
1877(明治10)年 | 陸軍士官学校入学 騎兵科を専攻 |
1887(明治20)年 | フランス留学で騎兵研究を行う |
1894(明治27)年 | 騎兵第一大隊長として日清戦争に従軍 |
1904(明治37)年 | 騎兵第一旅団長として日露戦争に従軍 |
1916(大正5)年 | 陸軍大将 |
1924(大正13)年 | 北予中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)校長就任 |
1930(昭和5)年 | 11月4日、陸軍軍医学校で死去(享年72) |
秋山 真之(1868~1918)
「日本海軍の知将」と言われた海軍の軍人。日露戦争では連合艦隊の作戦参謀として日本海海戦などで活躍した。
<略歴>
1868(慶応4)年 | 3月20日、松山城下中歩行町に秋山久敬の五男として生まれる |
1883(明治16)年 | 兄・好古の招きにより上京 |
1885(明治18)年 | 東京大学予備門入学 |
1886(明治19)年 | 東京大学予備門を中退 海軍兵学校へ転校 |
1894(明治27)年 | 砲艦「筑紫」の航海士として日清戦争に従軍 |
1897(明治30)年 | 米国留学、戦術研究を行う |
1904(明治37)年 | 第一艦隊参謀として日露戦争に従軍 |
1917(大正6)年 | 海軍中将 |
1918(大正7)年 | 2月4日、小田原の山下亀三郎の別荘で死去(享年51) |
正岡 子規(1867~1902)
俳句をはじめとする日本近代文学の革新を進めた明治を代表する文学者。
<略歴>
1867(慶応3)年 | 9月17日、松山城下藤原新町に正岡常尚の次男として生まれる |
1883(明治16)年 | 叔父・加藤拓川の招きにより上京 |
1884(明治17)年 | 東京大学予備門入学 |
1889(明治22)年 | 喀血し、子規の号を使う 俳句の研究を始める |
1890(明治23)年 | 帝国大学文科大学哲学科入学 翌年、国文学科に転科 |
1892(明治25)年 | 「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を発表し、俳句革新に着手 日本新聞社入社。翌年、帝国大学中退。 |
1895(明治28)年 | 日清戦争に新聞記者として従軍 |
1898(明治31)年 | 「歌よみに与ふる書」を発表し、短歌革新に着手 |
1902(明治35)年 | 9月19日、東京・根岸の子規庵で死去(享年36) |