HOME   ≫   フィールドへの扉   ≫   フィールドを訪ねて   ≫   No. 001 秋山好古の足跡を辿る旅 ※2009年8月掲載情報

概要


坂の上の雲ミュージアム

坂の上の雲ミュージアムが発信するフィールド紀行の第1弾は、「秋山好古の足跡を辿る旅」。

ミュージアムを出発し、萬翠荘、愚陀佛庵を訪ね、ロープウェー街から城北方面へと、ちょうど松山城を反時計回りに一周するコースです。

今回は、当館学芸員と『坂の上の雲』のまちづくりに取り組む市職員、松山城の石垣に詳しい市文化財課の学芸員の解説でフィールド紀行をお届けします。

坂の上の雲ミュージアム - 萬翠荘

坂の上の雲ミュージアム - 萬翠荘


ガラスカーテンウォールの借景

“城山の借景”

当館の建物(西側ガラス面)に映った松山城周辺の景色は見所の一つ。
木々が青々と繁ったこの季節、ガラス一面に映し出される城山の緑は一段と輝いている。


愛松亭跡

“夏目漱石の足跡”

午前9時、ミュージアムを出発し萬翠荘へ。
ミュージアムの入口は、萬翠荘の門をくぐり、なだらかな坂を少しのぼった右手にある。
今回は右に折れず、道なりに坂をのぼってゆくと、「愛松亭跡」の記念碑が見えてくる。
ここは、明治28年4月に愛媛県尋常中学校の英語教師として赴任した夏目漱石が、
三番町の城戸屋旅館に一週間ほど滞在したあと、下宿した場所である。
この辺りは、旧松山藩時代に家老屋敷があったところであり、愛松亭での漱石のエピソードは小説『坊つちゃん』に登場する。
愛松亭跡を通り過ぎ、坂を登りきると「萬翠荘」に到着である。


萬翠荘

“久松定謨と好古と拓川と…”

萬翠荘は、久松定謨(旧松山藩主久松家の第15代当主)が大正11年に別邸として建てたフランス風の洋館である。
摂政宮裕仁親王(皇太子)の行啓に合わせて建設し、ご宿泊所にあてられた。
設計は東京帝国大学出身の木子七郎であり、県下初の鉄筋コンクリート造り建築。
定謨は慶応3年生まれで、正岡子規と同じ歳である。明治16年から24年にかけてフランスに留学しており、正岡子規の叔父である加藤拓川や好古らが補佐役を務めた。好古のフランス滞在は明治20年から24年である。定謨がサンシール陸軍士官学校に入学することになった明治20年、陸軍騎兵大尉として活躍していた旧藩下級武士の子孫である好古がその補佐役として渡仏することになったのだ。このエピソードは小説『坂の上の雲』にも描かれ、定謨の学籍簿や写真など関係資料は当館で現在開催中の第3回企画展で展示している。サンシール陸軍士官学校を卒業した定謨は、陸軍歩兵将校となり、日露戦争時はフランス公使館付武官としてロシアの情報収集にあたった。この建物は、フランス滞在が長かった定謨ならではの造りである。
大正11年の行啓当時、拓川は松山市長(第5代)を務めており、その対応にあたっている。定謨・好古・拓川の交流は、フランス時代だけでなく生涯にわたって続いた。

萬翠荘の中には、松山出身の洋画家・八木彩霞(明治19年~昭和44年)が描いた2枚の壁画がある。

愚陀佛庵

愚陀佛庵


愚陀佛庵

萬翠荘の右手奥へと進み、子規と漱石ゆかりの場所である愚陀佛庵へ。

愚陀佛庵は、漱石の下宿であったところに子規が明治28年8月から50日ほど仮寓し、柳原極堂や下村牛伴など松風会(俳句グループ)メンバーらも連日のように集った家(2階建て、復元)である。もとは市内二番町にあったが、戦災で消失し、昭和57年に同場所に復元された。1階に子規、2階に漱石が住んでおり、1階で開かれていた句会に仲間入りした漱石は、その後の文学活動の萌芽を得ている。

※平成22年7月12日未明からの記録的な豪雨により、松山城東雲口登城道斜面において土砂崩れが発生し、城山の麓にあった愚陀佛庵は全壊しました。現在、見学はできない状況となっています。

秋山兄弟生誕地

秋山兄弟生誕地


ロープウェー街入口

愚陀佛庵を出て、ミュージアムまで坂を下り、秋山兄弟生誕地目指してロープウェー街へ。
徒歩で約5分である。

“好古が育ったまち”

ロープウェー街周辺は、かつて秋山兄弟が少年時代を過ごした地域である。
好古が少年時代、近所の銭湯でアルバイトをしていたというエピソードが小説に登場する。
銭湯を開いたのは、南歩行町の“戒田のおいさん”(戒田直澄)で、好古の父・久敬と同じ下級武士であった。
戒田家は、秋山家(中歩行町)の前の通りよりも一本南側の通りの角にあり、両家の位置関係は、
「松山城下町絵図 嘉永六年」(復刻日本古地図選、愛媛県立図書館所蔵)で確認することができる。
また、中徒歩町の秋山邸の地券は当館で展示中であり、家主として好古の名前が記載されている。


秋山兄弟生誕地

さて、ロープウェー街に入って2本目の通りを右折すると秋山兄弟生誕地が見えてくる。
好古や弟の真之が育った秋山邸は昭和の戦災で焼失しており、平成17年に全国からの募金によって生誕地が復元・整備された。
生誕地に入ると、好古の騎馬像と真之の胸像が向かい合うように建てられているほか、家の中には好古や真之直筆の書や関係資料が展示されている。大正13年から昭和5年にかけて、好古は城北にある私立中学・北予中学校を務め、毎日この秋山邸から小唐人町(現在のロープウェー街)を通って通勤していた。この生誕地では、大変熱心なボランティアの方々がいらっしゃるので、詳しい説明を聞くことができる。

“好古の通勤路を歩いてみよう!”

ここからは、秋山邸から北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)を目指して、約6年間にわたり無遅刻無欠勤でとおした好古の通勤路を散策する。

東雲神社

東雲神社


東雲学園

“散策集”

生誕地からロープウェー街へと戻り、松山東雲中学・高等学校(以下、東雲学園)の正門前を通る。この地は、旧藩時代には家老屋敷、明治以降は松山病院、赤十字病院があり、大正9年から松山女学校になっていた。かつて病院があった時代には、「病院下」と呼ばれていた。
好古が毎日通っていたこの界隈は、明治28年に帰省した子規が松風会の仲間とともに城北・御幸にかけて散歩吟行しており、その時の記録が「散策集」にまとめられている。

「明治二十八年九月二十一日午後  子規子
稍曇りたる空の雨にもならで愛松碌堂梅屋三子
に促され病院下を通りぬけ御幸寺山の麓にて引
返し来る往復途上口占

秋の城山は赤松ばかり哉
   (~後略~) 」


東雲神社の参道

☆子規のルート☆(「散策集」明治28年9月21日)

病院下→松山城→毘沙門坂→常楽寺→地蔵堂→御幸寺→千秋寺→城北練兵場→松山城の高石懸(遠望)→杉谷町

東雲学園前を通り過ぎると、ロープウェイ駅舎、東雲神社の参道へと続く。

― 牛行くや毘沙門阪の秋の暮

― 狸死に狐留守なり秋の風暮


毘沙門坂

東雲神社の入口あたりに、昔毘沙門堂があり、そこに毘沙門狸という、いたずら好きな狸がおり、多くの人が化かされたという話が伝わっている。子規の幼馴染で、俳人の柳原極堂や郷土史家の景浦稚桃もだまされたそうだ。明治や大正のころにもそうした話が生まれたというのは、興味深いことである。

― 社壇百級秋の空へと登る人

通勤路

通勤路

好古の通勤路


和光幼稚園付近

さて、ここからは好古の通勤路散策に戻る。
東雲神社の前を左折し、和光幼稚園の正門前を北方に右折する。現在は、東雲神社前から日本赤十字病院に向けてまっすぐに抜ける大通りが整備されているが、かつては東雲神社前から少し左手に道路があり、城北練兵場まで通じていた。
このあたりで好古の目撃情報があるので紹介しよう。

和光幼稚園の園長・藤田氏のお話しによると、父親が小学生のとき、家の門前で腰を掛けていると通勤している好古の姿をみたと伝え聞いているそうである。父親が好古に敬礼をすると、にっこり微笑んでくれたのだが、子どもにとっては怖かったようである。


西一万通り周辺

さて、この和光幼稚園前を過ぎると、北予中学校まで好古の正確な通勤ルートは現在のところ分からない。
愛媛県立松山北高等学校郷土研究部(北予中学校の後身)が平成16年に「秋山好古 校長の通った道」を調査し、目撃情報等を収集し1枚の地図にまとめたものがある。この地図は、平成16年度国土地理院 地図作品展において愛媛県教育委員会教育長賞を受賞している。彼らの調査でわかった目撃情報を2つほど紹介する。

  • 城北練兵場近くにあった岡田商店の方が、好古が通る姿を見て時計の針を合わせたという。
    好古は時間に正確で、出勤時間は約20分前と決まっていたようである。
  • 北予中学校正門近くでうどん屋を営んでいた方が、杖を突きながら好古が歩いてくるのをよく見ていたという。
    好古は晩年、神経痛のため左足をやや引きずりながら歩いていたようだ。その後、脱疽が進んだ左足を切断したものの、すでに手遅れの状態で72歳の生涯を終えることになる。

北予中学校

北予中学校


西一万通り周辺

和光幼稚園前から北方に電車通りまで道路は抜けているものの信号がないため、今回は西一万の通りに戻り、線路まで進み、左折・直進する。
伊予鉄道環状線の「鉄砲町」駅付近は、明治中期から陸軍の城北練兵場があった。
子規が明治23年夏に帰省したとき、仲間と一緒に野球をしたのがこの練兵場である。
 元気に野球を楽しんでいたころを懐かしんだのであろうか、散策集には

― 草の花練兵場は荒れにけり

という句がある。


北予中学校

校長時代の好古は、遠足の時などに練兵場から馬を借りて騎乗したという。
練兵場を過ぎると、北予中学校到着である。

校長先生としての好古

好古は、約6年間に及ぶ校長生活のなかで生徒たちに「自労自活は天の道、卑しむべきは無為徒食」といった自主自学の精神を伝え続けた。
数々のエピソードは、当館の展示で紹介している。
また、愛媛県立松山北高等学校の資料室に保管されていた「同窓会雑誌」には、好古の訓話が掲載されている。
これら同校所蔵の好古関係資料も借用展示中である。

北の郭 - 堀之内

北の郭 - 堀之内


北の郭

子規や真之が遊んだ城山へ

松山北高を経て平和通に入り、西に進む。

― 秋の日の高石懸に落ちにけり

子規が散策途中に遠望したこの高石懸とは、藩政時代、城の北面を守る櫓として築かれた北の郭の石垣のことである。現在も北の郭の石垣の一部は残っている。


堀之内

堀之内

北の郭を通り過ぎ、松山城山に沿うように、途中で南に折れ、堀之内方面に向かう。堀之内は、江戸時代には、三之丸として歴代の藩主が居住した御殿や上級武士の屋敷があったが、明治~昭和にかけては陸軍の歩兵第二十二連隊が置かれていた。

堀之内からそびえ立ち、城山の裾野を取り囲む二之丸石垣の南西面は、非常に高いものであるが、往時は道路もなく、さらに深いものであった。内堀が石垣に接していたのである。


黒門跡

黒門跡の石垣は、発掘調査により、現在の地表面から下に2m50cm程度続いていることが確認されている。両側に土塀と6mを超える石垣を伴い、相当な威容を誇っていた江戸時代の黒門の様子が伺える。

ツアー終了

ツアー終了

今回のツアーはここで終了です。
ここまでかかった時間は約3時間!
ゆっくりと各地点にまつわる様々な話をしながらの3時間だったため、ペースアップすると2時間弱でまわれるでしょう。
この日は、二之丸周辺から一番町通りに出て、県庁、裁判所を通りミュージアムへ帰着。
ミュージアムを出発し、反時計回りに城山を一周する今回のコースは、かなりの長時間にわたるツアーとなり、城山の大きさを改めて思い知らされました。これからもフィールド紀行を実施し、随時報告します。

☆番外編!!☆ 真之が登った石垣


登り石垣

今回のツアーでは松山城の山頂まで登りませんでしたが、小説に登場する石垣について紹介します。

愛媛県庁の裏から城山山頂に登る道は、我々の通称では県庁道とよんでいる。この道に沿って石垣が山頂に向かって続いている。
その名も登り石垣とよばれるものであり、日本の城では松山城の他に彦根城と洲本城の三城でしか確認されていない。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多く用いられた石垣善請の方法である。朝鮮から帰った加藤嘉明によって築かれたもので、南面はかない良い状態で残っている。登られる方はぜひ注意して見ていただきたい。

県庁道を登り切り、筒井門・隠れ門下の石垣に突き当たる。この石垣は『坂の上の雲』の主人公秋山真之が、登ったとも伝えられている石垣である。

コース

は、ゆかりの地の説明板があります。