HOME   ≫   フィールドへの扉   ≫   フィールドを訪ねて   ≫   No. 002 松山城下の記憶をたどる

概要

フィールド紀行の第2弾は、「松山城下の記憶をたどる」旅。平成23年6月4日に実施したフィールドミュージアムツアーの様子をもとに紹介します。ミュージアムを出発し、愛媛県庁、松山中学校・勝山学校跡、明教館、愛媛大学附属中学校講堂、松山地方気象台、萬翠荘と市内を一円するコースで、近代化遺産でもある城下の建築物を中心に、明治から現在へというときの流れを意識しながら散策しました。今回は当館学芸員と松山観光ボランティアガイドの皆さん、そして特別講師としてお招きした岡崎直司さん(ライフワークは、タウンツーリズムの提唱と景観保存)の解説でフィールド紀行をお届けします。

県庁

“明治からの愛媛を見守る-愛媛県庁”


愛媛県庁

午前9時、坂の上の雲ミュージアムを出発。

市内電車の走る一番町の通りを西へ真っ直ぐ進み約1~2分、右手にドーム型の屋根が印象的な大きく近代的な洋風建築が姿を現す。愛媛県庁だ。

1873(明治6)年3月、松山城三の丸の一角(現在の堀之内)に愛媛県庁が開庁。当時の庁舎は竹矢来で囲まれた平屋建てであった。明治8年4月24日、県庁内に学務課を設置。学校に関する一切の事務を執り行うところで、秋山兄弟の父・久敬も一時期ここに勤めた。

その後、明治11(1878)年11月、現在地に木造平屋建ての県庁舎が完成。明治41(1908)年には2階建に改築された。

岡崎さんコラム

“木子七郎と新田長次郎”

現在の県庁舎本館はこの地に移ってから3代目となる。設計は東京帝国大学出身の木子七郎。ツアーの最後の目的地である萬翠荘も彼の設計だ。

ところで、当時大阪を拠点として活動していた木子七郎の作品が松山に残されている背景には、とある“ご縁”があった。
松山が生んだ大実業家に新田皮革の新田長次郎という人物がいる。
彼の会社が大阪の堺にあった頃、そこに営繕(メンテナンス技術者)として出入りしていた一人の青年がいた。それが若かりし木子七郎であった。木子は長次郎の娘・カツに見初められ、後に結婚することとなる。
この“ご縁”から、長次郎の地元である松山に木子建築が多数残されているのである。

建物は左右対称で、戦前期のことが分かる特徴として「愛媛県庁」の文字が右書になっている。また、戦時中は国の政策で白壁が迷彩色に塗られていた。

松山中学校・勝山学校跡

松山中学校・勝山学校跡


松山中学校・勝山学校跡

“真之と子規の学び舎”

県庁のほぼ真向い、緩やかなカーブに面した建物の所に松山中学校・勝山学校跡がある。

勝山学校

旧明教館(藩校)跡および稲川邸(旧藩家老屋敷)跡を使用し、1872(明治5)年10月に開校。同時期、松山地区では本校をはじめ5校が設置された。
正岡子規は明治8年頃に末広学校から転校し、私塾で学んでいた秋山真之もほぼ同時期に入学したといわれる。
子規の卒業証書(明治12年12月)は子規記念博物館に残されている。
その後、温泉郡外側尋常小学校(明治20年)や松山第一尋常小学校(明治27年)など統合や改称を重ね、明治33年に現在の松山市役所がある場所に移転。昭和4年4月に松山市番町尋常小学校と改称し、同年8月現在地へ移転。昭和22年に松山市番町小学校となり、現在に至る。

松山中学校

松山藩の藩校・明教館に源流を発する松山中学校。旧明教館(藩校)跡を使用し、1872(明治5)年に松山県学校が開設される。規則改正や改称などを重ね、明治9年9月に
北予変則中学校、同11年6月に松山中学校となる。
正岡子規は勝山学校を卒業後に本校へ入学し、秋山真之も学んだ。
現在、子規と真之の成績も記された明治14、15年の大試験採点表が松山東高等学校に残されている。
その後、明治34年に愛媛県立松山中学校と改称し、大正5年に現在地(持田町)へ移転。昭和24年に愛媛県立松山東高等学校となり、現在に至る。

“いざ、明教館へ!”

松山中学校・勝山学校跡を出て南へ。
市役所の本庁手前の角を曲がると、右手前方に赤いレンガの建物が見えてくる。愛媛県水産会館だ。
かつてここには移築された明教館講堂があり、明治36年から愛媛県教育協会図書館として利用されていた。昭和10年に市役所横へ県立図書館が出来たのを期にその役割を終え、2年後に松山市から無償で払い下げを受け、松山中学校敷地内(持田町)の現在地に移築、現在に至る。
ちなみにこの水産会館の隣にあるのが勝山学校の後身である番町小学校である。

そのまま二番町の通りを真っ直ぐ進む。

check!

松山全日空ホテルの向かい側、明治・安田生命のビルと駐車場の間に、元陸軍大将であり秋山好古の後輩にあたる白川義則の誕生跡がひっそりと立っている。見逃さないように注意だ。

更に少し進むと三越の角に差し掛かる。右手にある香川銀行の角を入って少し行くと、左手に愚陀佛庵跡地が見えてくる。ここは正岡子規と夏目漱石が下宿していた場所で、旧松山藩の士族・上野義方宅の離れ屋敷であった。
明治28(1895)年に愛媛県尋常中学校の教師として松山に赴任してきた漱石が、6月末から下宿を始め、その後8月末に病気療養のため戻ってきた子規が移り住み、この後2人の同居生活は50余日続いた。その間、子規と漱石は柳原極堂を始めとした俳句結社「松風会」のメンバーらと共に連日連夜句会を楽しんだ。漱石にとって、この当時の体験は10年後の『坊っちゃん』執筆のきっかけとなり“文豪夏目漱石”誕生の原点となった。
ルートを戻して二番町の通りへ。

大街道に出たら、そのまま一番町通りに向って進む。
昔の周辺地図が地面に描かれているところがあり、街の変遷を知ることができる。

大街道を出たら交差点を渡って東へ。
そこからひたすら真っ直ぐ一番町の通りを進む。
勝山の交差点を越え、持田地区へ入っていく。

学校の近くの道は以前と比べて広くなり、通学しやすい道になっている。
日常の散歩コースにも最適だ。

左手にグラウンドが見えてきて、その後正門が現れる。

明教館「講堂」の残る愛媛県立松山東高等学校に到着だ!
松山中学校・勝山学校跡からの所要時間は約30分である。

明教館

明教館


明教館

“江戸時代から残る遺産”

松山東高等学校は松山市内で有数の進学校である。
この敷地の中に当時の明教館講堂が移築され、今も残されている。

校内に入って明教館講堂に辿りつくまでの過程に漱石と子規の卒業記念碑が立っているので、これも是非チェックして欲しい。

明教館「講堂」は校舎の裏手側にある。
明教館を作ったのは文政11(1805)年の第10代松山藩主松平定通である。松山藩最初の藩校で、秋山好古や加藤恒忠(後の外交官加藤拓川、子規の母の弟にあたる)らも学んだ。二人は竹馬の友であり、首位を争う良きライバルであった。
また、明治初期まで正岡子規の祖父の大原観山がここで教授をしていた。

岡崎さんコラム

昭和12(1937)年に明教館「講堂」がこの場所に移ってから8年後の昭和20(1945)年7月26日のこと。ここら一帯は松山空襲でほとんどが焼き尽くされた。が、この明教館だけは防空要員らの決死の消火活動により焼け残った。

建物は千鳥破風(はふ)という三角の形の屋根が特徴的な和風建築。
火灯窓の変形など、本来寺社建築でしか使われないようなデザインも見られて面白い。
建物正面内部には松平定通自筆の「明教館」の額が掲げられている。

事前の予約があれば中の見学に応じてもらえる。(ただし平日のみ。詳しくは東高へお問い合わせを。)
また、隣接する松山東高校史料館には真之や子規、漱石など明教館ゆかりの人物たちの史料が展示されている。

愛媛大学附属中学校講堂 旧制松山高等学校講堂「章光堂」

愛媛大学附属中学校講堂  旧制松山高等学校講堂「章光堂」


旧制松山高等学校 正門

“本格西洋建築の講堂” 

東高を後にして更に東へ。愛媛大学附属中学校(持田町一丁目)が見えてくる。
学校手前の小さな交差点の角には愛媛大学の前身である旧制松山高等学校の正門が残されている。

この角を北に入って学校沿いに歩くこと1~2分。
学校敷地内に一際目を引く西洋建築が見えてくる。
旧制松山高等学校講堂「章光堂」である。

岡崎さんコラム


章光堂


章光堂(内部)

大正8(1919)年、旧制松山高等学校が開設された。
当時、国の学校の全国配置の方法はナンバー制だったが、一高(現・東京大学)から八高まで出来た所で、地域名称が冠せられる高校が作られ始めた。旧制松山高等学校はその先駆け的存在であった。

講堂が出来たのは学校開設の3年後の大正11(1922年)であった。他にホールのない当時は、音楽会や講演会などで一般にも利用されていた。

戦災を免れた章光堂は昭和24(1949)年の新制大学創立の際に他の旧制諸学校と共に愛媛大学に包括され、愛媛大学文理学部講堂となり、昭和38(1963)年に愛媛大学教育学部附属中学校が持田地区に移転したことを期に附属中学校講堂となり現在に至る。昭和46(1971)年に卒業生の要望で国費による修理がなされ、平成10(1998)年、松山市内で初めて国の登録有形文化財指定を受けた。

建物はトスカーナ式の円柱8本からなる大きな車寄せと左右対称に設けられた塔が特徴的な本格洋風建築である。
中に入ると上方部に「章光堂 昭和丁亥年 能成」と書かれた額がかかっている。「丁亥年」は昭和時代では22(1947)年しかないため、「章光堂」という名称は戦後1~2年の間につけられたものと推測される。「能成」は、哲学者・教育者として著名な安倍能成である。
正面ステージを囲むコの字形のギャラリーは20本の白い柱で支えられている。

“秋山好古と講堂”

大正15(1926)年11月、二代目校長の官僚的な指導方針に反発して全校ストライキが起きた。
事態は市民大会にまで発展し、県知事は当時私立北予中学校の校長職にあった好古に、共に調停に参加してくれるよう依頼した。
会見を重ねた結果、合意に達し、12月1日に講堂にて復興式が行われた。

 

松山地方気象台

松山地方気象台

“歴史ある現役の気象台”   


松山地方気象台

講堂前の門を出て西へ進む。

持田地区は今も戦時中の古い建物が残っているので、注意深く歩いていると当時の名残が見つかるかもしれない。例えば“一間(ひとま)洋館”と呼ばれる、大正から昭和初期の近代和風建築としてのいくつかなど。
加えて、東高の裏側あたりで左を見ると明教館講堂の屋根が綺麗に見える。

歩くこと約5分。右手に松山地方気象台が現れる。

明治23(1890)年1月1日、温泉郡(現松山市)持田町に松山気象台の前身である愛媛県松山一等測候所を設立、同日から業務を開始した。その後、地方測候所の等級制廃止により、大正8(1919)年5月15日に愛媛県立松山測候所となる。
現在の北持田に移転してきたのは昭和3(1928)年7月1日。昭和13(1938)年の国営移管により中央気象台松山測候所となり、同32(1957)年に松山地方気象台に昇格、現在に至る。

平成18(2006)年には登録有形文化財に登録された。

岡崎さんコラム

建物はこれまでの県庁や章光堂などの洋風建築とは違い左右対称ではない。これが日本の擬洋風建築の広がり方でもある。

正面上部には元々大時計があり、道行く人たちが時を知るのにとても重宝されていたが、時代の流れ、技術の進化に伴いその役割を終え、昭和41(1966)年の信号柱・信号旗撤去と同時期に姿を消した。

またここも県庁と同じく、戦中期には戦時迷彩として黒く塗られていたのであった。

敷地内には、今では目にすることが少なくなった百葉箱が今も残されていて、どこか懐かしい気持ちになる。

萬翠荘

萬翠荘

“終着、萬翠荘へ!”

気象台を出て更に西に進む。
勝山町二丁目の交差点を越え、更に西へ。上方には松山城の姿を臨むことが出来る。

歩行町二丁目の角を左へ入り、そこから3つ目の角を右に入り少し行くと、右手に秋山兄弟生誕地がある。ここには秋山兄弟の生家が再現されており、二人の銅像も立っている。

生誕地前を更に真っ直ぐ行くとロープウェー街に出る。

ちょっと寄り道コラム


東雲門

ほぼ真正面に見えるのが松山東雲中学・高等学校である。同校の正門を設計したのはJ.H.モーガンという建築家で、昭和3(1928)年に完成している。3代校長ホイテ女史の時代、新校舎建築計画が進められ、松山城の東郭跡に立地するという配慮がなされたという。洋風建築が流行りとなっていた時代に、ホイテ女史の理念とモーガンの設計という外国人によって生み出された和風の門。まるで城門である。前を通る時は是非見ていただきたい。

ロープウェー街を一番町に向って歩く。
一番町に出て西へ、松山地方裁判所手前の角を入ると右手には坂の上の雲ミュージアム、前方上方には豪華な洋風建築が見えてくる。

今回のツアーの終着地点萬翠荘である。

“久松定謨の別邸・萬翠荘” 


萬翠荘

緑に囲まれた敷地に堂々と建つ萬翠荘。

大正11(1922)年に旧松山藩主(久松家)の家督を継いだ久松定謨の別邸として建てられた。
この場所は松山藩家老の屋敷跡地で、明治期には料亭「愛松亭」があり、夏目漱石の松山赴任時の最初の下宿場所であった。

定謨は陸軍士官としてフランスに長期駐在していた。そのため、萬翠荘にはフランスの建築様式が採り入れられている。

岡崎さんコラム

設計者は県庁と同じく木子七郎である。彼の建築で一番力のこもった作品と言っても過言ではないであろう。

鉄筋コンクリート造りの建物は地上三階、地下一階で中央に重厚な車寄せを置き、屋根は希少な天然スレート(宮城県雄勝産)で葺いている。外装にはタイルを用い、車寄せ・玄関扉・窓・手摺・屋根窓に至るまで欧風のデザインでまとめられている。

ホールの石柱は装飾豊かなコリント式、チークの階段には彫刻が施され、正面踊り場にはハワイへ特別注文した帆船のステンドグラスが配されている。

贅を尽くした造りであり、外観・内装共に細かいところまでよく見ていただきたい。

昭和54(1979)年から平成21年までは愛媛県立美術館の分館として使用されていたが、今は一般公開施設として広く貸し出されている。

“定謨と好古”

久松定謨は、明治5(1872)年に旧松山藩主・久松定昭の養子として迎えられ、若くして久松家の当主となった。
明治16(1883)年からフランスに留学しており、明治20(1887)年にサンシール陸軍士官学校に入学するに際して、好古が輔佐役として渡仏、定謨は歩兵、好古は騎兵としてフランス陸軍に学んだ。

ツアー終了

ツアー終了

今回のツアーはここで終了です。
所要時間は約3時間。

坂の上の雲ミュージアムを始点として萬翠荘まで、江戸時代から現在にいたる様々な歴史的建築物を見てきました。
建物を通しての時空旅行も良いものですね。

次回のフィールド紀行もお楽しみに!!

番外編コラム

“屋根裏のトラス”


萬翠荘 トラス

ツアー終了後、特別に屋根裏部屋を拝見させていただきました。

普段は一般未公開ですが、見学を希望される方は萬翠荘さんへ事前にお問合わせ・ご相談ください。

萬翠荘はトラス構造(鉄製)が採用されており、屋根裏部屋にその構造を見ることができる。三角形を基本単位として組み立てられたトラス構造の鉄骨同士は、リベットで接合されている(鉄の表面にプツプツと盛り上がったリベットの上部が見える)。リベット接合が進化したものが溶接であり、戦前期の軍艦など昭和30年前後まではリベットで鋼鉄を接合していた。鉄は産業革命のひとつの象徴である。物作り日本の基を作った鉄骨をとおして、日本の近代化の歩みをみることができる。身近なところで櫓や鉄橋を見る機会があれば、ぜひその構造に目をやってみて欲しい。松山では他に「石手川橋梁」という明治期の日本最古の現役鉄道橋梁が鉄骨である。
(道後温泉本館のトラスは木製)

コース

は、ゆかりの地の説明板があります。